秀吉 側室 信長

母は、信長の嫡男・豊臣秀吉の側室となったが、その経緯や時期は不明。

秀吉と官兵衛; 発生条件: 発生武将:織田信長 イベント「官兵衛との出会い」発生済 羽柴秀吉、竹中半兵衛が織田所属 1577年10月になる: 達成条件: 1: 発生条件を満たす: 失敗条件: 1: 羽柴秀吉、竹中半兵衛が織田所属でない: 結果 目次 戦国期の名のある大名は、後継者を残すこと(子作り)が大きな仕事でしたので、 最初の正室” 正室をもし”帰蝶”ひとりだけであったとするならば、子供はすべて側室の生んだ子達となります。 本名は、 当時、信長の織田弾正忠家の支配地外であった尾張上四郡小折村(現愛知県江南市)にあった信長の母(土田御前ーどたごぜん)の親類筋にあたる、 吉法師と言う信長の幼名が使われていることから、信長の生駒屋敷への出入りは、元服前からと考えられますが、当時の そこへ、父信秀の命でもあったのか、社会勉強と情報収集の為に吉法師(信長)が出入りをしていた訳です。一説には つまり、”  時期的には、信忠の生まれたのが、弘治3年(1557年)で、吉乃が出戻ったのが、弘治2年(1556年)とされています。 正室帰蝶の信長への輿入れは『 この事から、”帰蝶の不明の消息”に関して歴史作家 つまり、信長と吉乃の関係は、タイミング的には正室帰蝶が病床にあった前後である可能性も否定できないようです。 一方、信長の”国盗り”では丁度謀叛を起した実弟の信勝(のぶかつ)を謀殺して、弾正忠家内での実権をやっと確定させた頃に当ります。 信長がやっと尾張統一に目処を付け始めた時で、  信長は翌永禄10年(1567年)に美濃稲葉山城を攻略して、美濃を征服し城を岐阜城を改称し、  現近江八幡市小田町の辺りの豪族高畠源兵衛を父に小田城に生まれ、本家小倉家の山上城主小倉賢治(こくら かたはる)の妻となっていました。 織田信長は永禄2年(1559年)2月に、不穏な動きを見せる東幕府たる”古河公方”方である駿河 この時、東方に与する信長暗殺部隊も京都へ派遣されており、その魔手を逃れるために、 その時以来、小倉賢治と織田信長との友好関係は続きますが、一方六角氏と織田氏の関係は”信長の上洛の動き”で悪化の一途を辿り、織田氏との友好関係を近江国主佐々木六角氏より詰問され、小倉賢治は切腹に追い込まれ、子供を六角氏に人質に取られてしまい、夫人『お鍋の方』はこの状況を打破する為に、この原因となった織田信長のところへ直訴に及びます。 その美形の若後家『お鍋の方』はそのまま岐阜城へ留め置かれ、永禄11年(1568年)9月の上洛戦において、 その後、信長との間に2男1女が生まれ、天正4年に『 天正10年(1582年)6月2日の『 程なく天下を奪取した豊臣秀吉から、召し出され秀吉の正室”おね”の女房衆とされますが、実態としては その為、当然ながら織田信長の妻として秀吉から俸禄(所領)を付けられ厚遇されることとなります。 しかし、”関ケ原の戦い”で西側への加担(秀吉の側室だったことか?)を咎められて所領も失い、晩年は京都に居住し慶長17年(1612年)没します(享年65~70歳と言われます)。  そもそも熱田神宮は、織田家の手厚い保護を受けており、多数の神兵を有し、大宮司家千秋家の千秋季忠(せんしゅう すえただ)なども、神官大宮司でありながら信長の家臣でもあり、後日の歴史的事件である『桶狭間の戦い』にも参戦し討死しているほどです。 岡本太郎右衛門良勝も、後年信孝が北伊勢の名族神戸具教(かんべ とものり)のところへ養子に入る時に、信孝に補佐として付けられ、信孝取次衆のひとりとなっています。 利発で器量もある彼女の息子信孝は、信長に期待され将来を嘱望されていましたが、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(明智光秀の乱)』での”織田信長の死”によって暗転します。 つまり これは、織田信長が稲葉山城攻略をした時、内応した 内応する時の人質にでも出したのでしょうか。それに信長が手を付けた訳ですね。 困ったものですが、子供の有無に関しては伝わっていません。 しかし、信長には母不詳の子供が男4名、女6名もいますのでひょっとすると誰かの母なのかもしれませんね。 秀勝は、永禄11年(1568年)の信長上洛の年に生まれ、 信長がやっとの事で、稲葉山城をおとして美濃を手に入れたばかりの頃です。 どう考えてもこの女性は美濃国の関係者で、前述の稲葉一鉄の孫娘か、馬場殿のどちらかでしかないような気がします。 しかし、名流土岐一族につながる貴種の馬場殿を大事にして美濃勢に気を使う信長が、その間に出来た大事な息子を下賤の出の羽柴秀吉の処へ養子に出すでしょうか。 もし仮にどちらかだったとすると、ここはやはり、 時期的に云ってもそれは嵌りそうな話です。 彼女は、信長が手こずっていた道三の息子斎藤義龍(さいとう よしたつ)の娘(斎藤道三の孫娘)です。 まむしの斎藤道三(さいとう どうさん)の孫ですから、おそらく これには経緯が史料(永禄4年5月11日の義龍病死以降の記事)にあります、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。 信長は、難敵斎藤義龍が病死したことを受けて早速、まだ稲葉山城が敵城にもかかわらず、 ”ふざけるな!”とばかり、義龍の継嗣斎藤龍興(さいとう たつおき)が怒り心頭に発しているようすが見て取れます。 これで話は途切れたと言われていますが、その後織田信長は、永禄10年(1567年)8月15日に稲葉山城を斉藤龍興を降伏させる形で落城させており、 後年、  前述しましたが、『吉乃』は3人目の子になる徳姫を永禄2年(1559年)に出産してから、産後の肥立ちが悪く、床に臥せった生活が続きます。 その後信長は永禄2年2月に上洛し、永禄3年(1560年)5月に一世一代の大勝負『桶狭間の戦い』を勝利に導くなど、多忙な毎日が続いており、生駒屋敷の『吉乃』のところへも足が遠のいていた様子です。 永禄6年(1563年)に小牧山城を落成させると、信長は正室扱いの『吉乃』に生駒屋敷(小折城)からの移転を求めます。 この時『吉乃』の兄の生駒八右衛門は、『吉乃』が簡単に動かせない病状であることを、小牧山城へ出向いて信長に謁見して説明したとあります。 つまり この間4年近く、他の側室(坂氏など)もいる訳ですが、とりわけ『吉乃』を気に入っている信長にしてはおかしなことです。 これは私見ですが、その間、子は成したとは言え、信長の相手が出来ない妹を見て、 以後、この代役『生駒殿』本人は直接歴史の表面には出て来ませんが、  三の丸殿は信長が安土城へ移った天正4年(1576年)以降に生まれたもので、『本能寺の変』当時、4~5歳だったと考えられます。 安土城から安土の留守を預かる蒲生賢秀の差配で日野城へ避難し、秀吉の勝利後一旦日野城を退出しますが、後日また蒲生氏に身を寄せ、そのまま三の丸殿は蒲生氏郷の下で養育されました。  こうして、 信忠の乳母であった母は、信長の後継争いで反秀吉側に付いた実家の滝川一族が破れて行く騒乱の最中、失意の中で死去したものと考えられます。 土方勝久は信長の家来でしたが、永禄12年(1569年)10月、信長が次男信雄(のぶかつ)を北伊勢北畠氏へ養子に入れた折、補佐する付侍となり信雄の近臣となりました。 天正4年(1576年)11月25日の北畠一族粛清の折、活躍しその功で信長より領地を拝領したとされています。信長の死後、信雄の”三家老誅殺”にも加わったとされ、その後信雄⇒秀吉⇒家康と巧妙に渡り歩いています。 織田信長は、その娘を側室にして、9男信貞を得ています。 朝廷の出来事を記載した史料『 ・・・三条所のあこゝといふもの、信長に焦がれたるよしさたあり・・ とあり、朝廷の日誌として有名な『御湯殿上日記(おゆどのうえにっき)』に、公家の” この時期には、 この姫君との間に子を成したかどうかわかりませんが、その翌年に信長が本能寺で横死していますので、一切不明となっています。 信長にはすでに正室『帰蝶』がいた頃(天文18年以降)に、信長付きの侍女だった『中條(ちゅうじょうーお駒)』に手が付き、妊娠したお駒は信長の傅役の平手政秀(ひらて まさひで)により、 永禄10年(1567年)11月に信長より埴原常安に20貫文(この当時は200~300万円程度)の知行地が与えられていますが、これは時期から見ると『乙殿』の元服料かもしれません。 その後、常安は尾張在住の吏僚として活躍し、『本能寺の変』後は、次男信雄に仕え500貫文(この当時は5000~8000万円程度)を知行します。 しかし  平手政秀によって『中條』が取り上げられたため、すぐに直子に手を出したと考えられ、直子は天文23年(1554年)5月5日に那古野城で男子(於勝丸ー信正)を生んでいます。 母の身分が低い事を理由に、後から吉乃の生まれた信忠が嫡男とされ、 直子も出家して”明鏡院智勝尼”となりましたが、その後の資料はないようです。 兄の前述していますが、吉乃の実家である おそらく、信長が生駒屋敷に勝手に出入りを始めたのは、馬に乗れるようになって遠出することが出来るようになってから、、、10歳くらいではないかと推察します。 昔から出入りする織田の若君信長のことは生駒の娘類(るいー吉乃)も見知っていたようです。 しかし、信長が類のことを意識するのは、 近年、愛知県江南市で発見された”前野家文書『 すなわち上総介信長様、美濃斎藤道三入道の御息女、御縁組以前に、郡邑生駒蔵人の女吉野女、上総介様の御手付きあり。この生駒の後家殿、土田弥平治討死候いてより、雲球屋敷に罷り候ところ、上総介様、雲球屋敷へ御遊行、目を懸けなされ殊のほか御執心の揚句、上総介様の御たねを宿し罷り候なり。 とあります。 雲球屋敷と言うのは、生駒八右衛門の屋敷ー小折城のことです。この”前野家文書『武功夜話』”の伝えるところによると、生駒の親戚一統は、そもそも信長の織田弾正忠家とは敵対する尾張上四郡を支配する しかし、この岩倉の殿様は”武人の器に非ず日毎歌舞狂言酒色に明け暮れ、到底岩倉の城保ち無き有様なれば、手前共を始め近在の者何れも身の振り方に苦慮仕るところ”と言う状態で、 そんな天下様以前の”尾張統一途上の織田信長”にとって大きな支持勢力として、この生駒の一族が吉乃のことを契機に加わったことが分かります。 そのため、信長の美濃との成婚の重要性を考え、吉乃の存在を美濃勢に隠すため、”吉乃を生駒屋敷から丹羽郡井上庄の井の上屋敷へうつし隠し置き候なり”と言う細工までしてくれます。  定説では、、、  しかし、この奇蝶には子供が出来ず、また生来の”女好き”ですぐ女性に手を出す信長の気質から”側室”の人数はかなりの数に上ります(それでも戦国では少ない方だと言います)。 こんなことから、よく信長は”衆道(しゅどうーゲイ)”だとの話が出ますが、信長の美少年好きと言っても実際に”美貌”と確実に言えるのは、小姓の『 森蘭丸(乱丸)も武辺の家柄でいかつい体格をしていた可能性が高く、どうも前田犬千代(としいえ)と同じ作り話ではないでしょうか。  話を元に戻しますと、、、 正室帰蝶は美濃の名族から嫁に来たと言うプライドが高く、信長との夫婦仲は極めて冷めており、その反面女好きの信長は凝りもせず、あちらこちらの女性に手を出していましたが、正室帰蝶は”信長の女癖の悪さ”には口出しもしなかったと言われます。 そして、弘治2年(1556年)4月20日に、父道三が息子の義龍に殺されて以降は、父の肖像画を寺に寄贈したと言う記事から 夫婦仲が冷めているだけでは、あれだけ派手に活躍する織田信長の正室の消息が途絶えることはあり得ないことから、 実際はどうでしょうか。。。 廿七日、乙亥、辰戌刻小雨灌、天晴、〇・・・、故一色義龍後家壺爲所持、可被出之由信長連連被申、一亂之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可爲自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上丗餘人可切腹由也、仍中分失佛に治定、今日無事成了、・・・ 美濃制圧後に、信長が故斎藤義龍夫人に持っている名物の壺を献上しろと命じたところ、彼女が抵抗して”信長本妻兄弟女子十六可爲自害”とあり、あなたが攻め入った合戦で、失ったと言っているでしょう。無理強いするならあなたの妻兄弟が自害しますぞと脅したことが載っています。 これだけ、 ところが、、、前述した『馬場殿』の記事に、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。  これによると、”壺”の話も同じ美濃衆斎藤一族に睨みの利く『馬場殿』が信長の妻(側室)に収まっているとすると、 とすれば、『吉乃』が亡くなった後に、岐阜城の『馬場殿』を”本妻”と言っている以上、 『吉乃』の死後となると岐阜時代からとなるのかもしれませんが、前述の項目から考えると、、、  大体こうなりそうです。  実際、父信秀は”教育パパ”だったようで、評判の学者、兵法者を遠方より呼び寄せ、良馬を買い求めて日々の鍛錬を信長に求め、 そんな中、  『前野家文書ー武功夜話』では、信長が小姓ら親衛隊を引き連れて”若様スタイル”で生駒屋敷に現れてような記述になっていますが、それは最初はあり得ない話で、後年の信長の話を前野一族子孫としての格好付けに使ったに過ぎないと考えます。 この当時の乱世の最前線である生駒屋敷(小折城―砦ですね)で”若殿スタイル”はないのではないでしょうか。 さて、本題ですが、、、 そんな真面目少年”吉法師(きっぽうしー信長)”も、取り巻きの悪童たちの雰囲気に押されて、 いつ頃の事でしょうか?まだこの後始末に とすると、 ホンモノの”ワル”ではないですから、今のように手あたり次第に”ナンパ”して女の子を泣かせて回ると言う事はなかったのではないでしょうか。 戦国の天下取り(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の内、秀吉、家康に比べて ところが、歴史作家の これは、  私も当時日経新聞に連載される織田信長の姿が、通説で認識していたものと相当違い、知らない女性たちが次々登場するのを驚きの目で読んだ覚えがあります。 ともあれ、ベールに閉ざされていた謹厳実直・冷血漢であると通説で考えられていた、 気位の高い妻”帰蝶”とは冷えた関係で、美少年好きで”衆道に血道を上げる戦国武将の典型”と考えていた”織田信長像”が大きく変わりました。 そして、そ 本当に子供がいないとわかっているのは、正室の『濃姫(奇蝶)』だけです。記事に記述した側室たちだけでも2人は子供に関する事がわかっていません。    10代の頃信長は、、、  しかし、街場の娘出身の側室は一人もいません。武家が街場の女性など相手にしないと思うかもしれませんが、この信長の祖父は町衆を押える為に、町の有力者のところへ自分の娘を嫁に出しています。 今思うほど、当時の武家と町衆の垣根は高くなかったと考えられます。この身分制度の垣根を分厚くしたのは徳川家康が作った江戸時代です。 つまり、  おそらく、最初の妻、正室帰蝶に対する思いはかなりのものであったのではないでしょうか。 そして、  だったのではないかと考えられます。 間違いないことは、 〇楠戸義昭 『風雲児信長と悲運の女たち』(2002年 学研文庫)〇新人物往来社編 『信長をめぐる七人の女』(1991年 新人物往来社)〇阿部一彦 『「武功夜話」で読む 信長・秀吉ものがたり』(2013年 風媒社)〇〇〇吉田蒼生雄全訳 『前野家文書ー武功夜話』(1995年 新人物往来社)〇谷口克広 『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年 吉川弘文館)

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